維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 17/30

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4/3【4/30】松陰養父・山鹿流兵学師範である吉田大助(賢良)(1807~1835)、死去。享年29。義父が没し、義母久満(里)が実家に帰り、松陰は生家の杉家に戻り、杉家の両親に育てられる。吉田久満(里)(1814 ?....

4/3【4/30】松陰養父・山鹿流兵学師範である吉田大助(賢良)(1807~1835)、死去。享年29。義父が没し、義母久満(里)が実家に帰り、松陰は生家の杉家に戻り、杉家の両親に育てられる。吉田久満(里)(1814 ?~1872)は、阿武郡黒川村(萩市)の豪農森田伊右衛門頼寛の第四女、家格の関係で久保五郎左衛門の養女として天保3年(1832)、大助に嫁す。以後名前を「里」に改める。00336/20【7/15】「松陰が吉田家を継ぐ」。松陰6歳(1830~1859)、藩命により、吉田大助高弟の玉木文之進(1810~1876)・渡辺六兵衛・林真まな人と(百非)(1796~1851)・石津平七らを家学教授代理として、この日、吉田家を継ぎ、「大次郎」を名乗る。幼い松陰は、そのまま、杉家で育てられる。00347/14【8/8】世良修蔵(1835~1868)、周防国大島郡椋野村の中司八郎衛門の三男として生まれる。(後に世良姓を名乗る)。17歳の時、萩藩の藩校である明倫館に学び、後に大畠村で海防僧月性(1817~1858)の時習館(清狂草堂)に学ぶ。さらに江戸で儒者・安井息軒(1799~1876)の三計塾に学び、塾長代理をつとめた。その後帰郷し、周防国阿月領主・浦うら靱ゆき負え(1795~1870)が開設した私塾・克こっ己き 堂どうの兵学などの講師として仕官した。武士である木谷家の婿養子となりここで「木谷修蔵」と名乗り、同郷の赤禰武人の配下となった。文久3年(1863)頃から高杉晋作と交わり、奇兵隊書記となる。003511/3【12/22】大やまと和弥や八はち郎ろう(1835~1865)、長州萩藩大組士(670石)山県弥九郎の次男として生まれる。同藩士大和七兵衛の養子となり、山県武之進から「大和国之助」に名前を改めた。20歳のとき浦賀警備、帰藩して表番頭となる。また兵庫警衛に任じられ、ついで万延元年(1860)には江戸留守居役を務めた。また、文久2年(1862)12月には、高杉晋作・久坂玄瑞らと英国公使館の焼き討ちを計画、未遂におわる。文久3年8月18日の政変後は藩主や七卿の復権に尽力し、奧番頭役、直目付役など要職を勤めた。元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)の後、長州藩の政権交代で失脚。藩内の俗論党に捕らえられる。甲子殉難十一烈士の一人。0036西暦1836天保6 11/15【1/3】■坂本龍馬(1836~1867)、土佐に生まれる。003711/28【1/16】井上馨かおる(長州5傑の一人)(1836~1915)、長州藩士・井上五郎三郎光亨(大組・100石)の次男として、周防国湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。弘化2年(1845)山口講習堂に入学、嘉永4年(1851)藩校明倫館に入り、嘉永6年(1853)志道慎平(大組・100石)の養子となり、江戸の有備館に入った。また斎藤弥九郎に剣を、岩屋玄蔵に蘭学を学び、さらに安政5年(1858)砲術修業のため江川太郎左衛門塾に入った。万延元年(1860)手廻組に加えられ小姓役となった。幼名は勇吉、通称を聞ぶん多た(長州藩主毛利敬親から拝受)。桂太郎(1848~1913)は娘婿。003812/29【2/15】松平容かた保もり(1836~1893)、美濃国高須藩主・松平義よし建たつの7男として生まれる。のちの陸奥国会津藩の第9代藩主、京都守護職。0039西暦1835黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻41