維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 16/30

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天保5 3/20【4/28】前まえ原ばら一いっ誠せい(1834~1876)、長門国土原村(現・山口県萩市)に長州藩士・佐世彦七(大組47石)(1813~1876)の長男「佐さ世せ八や十さ郎ろう」として生まれ(3月24日生まれとも....

天保5 3/20【4/28】前まえ原ばら一いっ誠せい(1834~1876)、長門国土原村(現・山口県萩市)に長州藩士・佐世彦七(大組47石)(1813~1876)の長男「佐さ世せ八や十さ郎ろう」として生まれ(3月24日生まれとも)、慶応元年(1865)から前原姓を名乗る。天保10年(1839)父の厚狭郡船木村出役に従い萩から原狭郡目出(山陽小野田市)に移居。歴史書を読むのを好み、世の変革に強く興味を持つ。翌年、村に唯一の幡生周作の寺子屋で習字と素読を学ぶ。13歳の弘化3年(1846)姉万志の嫁ぎ先、国司家に預けられ、岡本栖雲の私塾江南塾へ通い、読書・習字を習う。3年間、目出に帰らず勉学に励む。嘉永2年(1849)親戚の来原良蔵宅に移り、福原冬嶺に従学、中国の古典経書や詩文を学ぶ。翌年、家族とまだ見ぬ弟・穎えい太た 郎ろう(1849~1876)に会うため、萩に帰る途中で落馬して胸を強打し足を骨折。一生悩まされる傷を負い、性格も内向的になる。武技を捨て塾をやめて再び船木に移住して、父と共に家計を助けるべく畑に入り、漁をし、陶器作りに精を出し、また写本に努める。安政4年(1857)父に従って帰萩、10月吉田松陰の松下村塾に入門、師から「誠実さ人に過る」と愛された。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。維新の十傑の1人。政府は、大正5年(1916)4月11日、維新前後における勲功により、特旨をもって従四位を贈っている。0031西暦1835天保6 1/16【2/13】杉孫七郎(徳輔)(1835~1920)、周防国吉敷郡御堀村で長州藩士植木五郎右衛門の次男として生まれる。母は周布政之助の姉である。ほどなく、同藩士・杉考之進盛しげ倫ともの養子となる。幼時に文学(漢学)を佐々木源吾に、槍術宝蔵院流を岡部右内に学んだ。安政元年(1854)養父に従って江戸に行き、同2年(1855)藩校明倫館に入り、また吉田松陰の薫陶も受ける。藩主の小姓を務めた後、文久元年(1861)藩命により江戸幕府の遣欧使節である竹内保徳らに従って欧米諸国を視察する。帰国後、下関戦争では井上馨と共に和議に尽くし、元治の内乱では高杉晋作を支持しつつも、保守派との軍事衝突には最後まで反対。四境戦争では長州軍の参謀として活躍した。0032西暦1834杉孫七郎(徳輔)佐世八十郎(前原一誠)40