維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 15/30

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西暦1833天保4 -「天保の大飢饉」。江戸時代後期のこの年に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した。天保10年(1839)まで続いた。1836年までと定義する説もある。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一....

西暦1833天保4 -「天保の大飢饉」。江戸時代後期のこの年に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した。天保10年(1839)まで続いた。1836年までと定義する説もある。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。00276/26【8/11】和田小五郎(桂小五郎、木戸孝允)(1833~1877)、長門国萩呉服町(今の山口県萩市呉服町)に萩藩漢方医・和田昌景(?~1851)の長男として生まれる。吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者として活躍する。特に志士時代には、幕府側から常時、命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通と共に「維新の三傑」「維新の十傑」として並び称せられる。その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族と共にただ二家のみであった。0028西暦1834天保4 12/29【2/7】広沢真さね臣おみ(1834~1871)、萩藩士・柏村半右衛門安利の四男として長門国萩十日市に誕生する(幼名は季之進)。体は6尺もある偉丈夫、温雅で文武に達し、漢詩と槍術に長じていた。弘化元年(1844)12月、同藩大組士・波多野英蔵直忠(100石)の婿養子となって「波多野金吾」と称した。藩校・明倫館に学び、嘉永6年(1853)の黒船来航時には大森台場警衛のために出張。安政6年(1859)には藩の軍政改革に参画するなど、尊攘派として活躍した。以後、藩世子毛利定広と共に入洛し、桂小五郎や久坂義助(玄瑞)の下、京都詰の事務方として尽力した。元治元年(1864)藩内の政権闘争で主戦派が恭順派に敗れた、それに連座して投獄されたものの、主戦派でなかったために処刑を免れる。慶応元年(1865)高杉晋作がクーデターによって藩の実権を掌握すると、政務役として藩政に参加することとなる。維新の十傑の1人。賞典禄は大久保利通・木戸孝允と同等の1,800石で、長州藩の旗手であった。0029天保5 - 杉矩のり方かた(吉田松陰)5歳(1830~1859)、この年、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助(賢良)(1807~1835)の病中仮養子となる。大助は剛直ながら生来病弱だった。松陰この時、有無もなく藩の兵学教授となる道が決まった。このとき以来、まだ年端もいかぬ少年に対し、兵学教授となるべく英才教育がはじまった。吉田大助は、杉常徳(七兵衛)の次男として生まれ、吉田家に養子に行っていた。吉田家は代々、山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え、家禄五十七石六斗を受けてきた中土の家柄である。0030黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻39