維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 14/30

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天保3 11/12【12/3】萩藩下級武士(二十六石)・杉百合之助(常道)(29歳)(1804~1865)と瀧(27歳)(1807~1890)の長女・千代(松陰妹、のちの児玉芳子)(1832~1924)が生まれる。0024閏11/8【12/29】久....

天保3 11/12【12/3】萩藩下級武士(二十六石)・杉百合之助(常道)(29歳)(1804~1865)と瀧(27歳)(1807~1890)の長女・千代(松陰妹、のちの児玉芳子)(1832~1924)が生まれる。0024閏11/8【12/29】久保清太郎(1832~1878)、吉田松陰の義理の叔父、萩藩士・久保五郎左衛門久成(1804~1861)の長男として、萩城下松本村(現・山口県萩市)で生まれる。名・久清、通称・清太郎、松太郎。明治2年(1869)に「断三」と改める。号・淞東。11歳頃から松下村塾で玉木文之進に学ぶ。吉田松陰兄弟とは一緒に学んだ。13歳で家督を相続。嘉永元年(1848)松陰の兵学門下となり、その後松陰が他へ出かけることが多くなったが、帰郷中は必ず教えを受けた。安政2年(1855)24歳で江戸藩邸の大番手として約2年間勤める。この間、古賀茶さ 渓けい・羽倉簡堂・東條英庵・藍谷(塩谷)塩しおの谷や 宕とう陰いんに学んだ。安政4年(1857)4月、松下村塾の運営が玉木文之進から久保五郎左衛門を経て、松陰の主宰となったのを受け、助教授格として村塾を手伝う。松陰刑死後も松下村塾を助け、また、藩政も勤める。0025閏11/-【12/-】久留米水天宮祠官・真木保やす臣おみ(1813~1864)、京都で従五位下に叙任、大宮司真木和泉朝臣保臣と称する。真木和泉守、略称を真木和泉と称す。真木和泉は、文化10年3月7日、筑後国(福岡県)久留米瀬下町に、水天宮祠官・真木左門旋とし臣おみの子として生まれる。文政6年(1823)父の死により家督相続、久留米藩中小姓格に列し、第22代水天宮祠官となる。弘化元年(1844)尊攘を唱える後期水戸学に心酔、赤羽の水天宮参詣を口実に江戸に出て、7月同学の大成者・会あい沢ざわ正せい志し 斎さい(1782~1863)に面会し影響を受け、また安井息そっ軒けん(1799~1876)、塩谷塩しおの谷や宕とう陰いん(1809~1867)、橘守部(1781~1849)らと往来。9月23日久留米に帰り、木村三郎、村上守太郎らと水戸学(天保学)の影響下にある天保学連の中心となり、弘化3年(1846)3月、藩主有馬頼より永とう(1822~1846)に藩政改革意見を上書した。会沢正志斎は、10歳より水戸藩士藤田幽谷(東湖の父)に師事。嘉永6年(1853)ペリー来航に際し、上書して策を徳川斉昭父子に呈し、安政2年(1855)8月将軍家定に謁見した。安政5年(1858)8月勅許問題が発生し、ついで幕府がその返納を迫るや、朝廷に返納すべきを言い、万延元年(1860)春、桜田門外の変起きるや、天誅の事その身の職に非ずとして大老要撃の士を論難した。文久2年(1862)「時務策」を稿して一橋慶喜に呈し、彼我の大勢を明らかにして今日の向うところを示した。世界の中心に万世一系の皇統があるが如くに飛躍した主張・「新論」を立てる。晩年、藤田東湖(1806~1855)とは意見が対立する。水戸光圀の前期水戸学にたいして、幽谷・正志斎の確立していったものを後期水戸学と呼ぶ。0026西暦1832会沢正志斎藤田東湖広沢真臣38