維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 12/30

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西暦1831天保1 12/10【1/23】江戸の大火や京都の地震などの災異のため、天保と改元。0015天保2 2/13【3/26】金子重しげの輔すけ(1831~1855)、長門国阿武郡紫し 福ぶき村むら商人・茂左衛門とつるの長男として....

西暦1831天保1 12/10【1/23】江戸の大火や京都の地震などの災異のため、天保と改元。0015天保2 2/13【3/26】金子重しげの輔すけ(1831~1855)、長門国阿武郡紫し 福ぶき村むら商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。名は貞吉。別称に卯之助、直三郎、重介。渋木松太郎、市木公太という変名を用いた。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学ぶ。家業染物業を嫌って他家を継ぎ長州藩士久芳内記の組下の足軽として仕えていた。20歳前後の頃、酒と色で失敗したことがあり、その後はそれを悔いて、勉学に励んでいた。嘉永6年(1853)江戸に出て長州藩邸の雑役となる。肥後の宮部鼎蔵の親友、永鳥三平(松村大成の弟)(1824~1865)が重輔のその志を哀れみ最初に教えだした。松陰はこの永鳥三平の紹介で同藩出身の重輔と知り合うこととなる。嘉永7年(1854)アメリカ合衆国の東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎(新三郎)(1819~1856)の私塾蒼龍軒に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。その後、幕吏によって萩へ送還され安政2年(1855)士分以下の者が入る岩倉獄で病没した。00162/18【3/31】龍馬と長府藩とのパイプ役を果たした印いん藤どう聿のぶる(後の豊永長吉)(1831~1911)、長府藩士・下村又三郎高たか輔すけの三男として長府南の浜に生まれる。幼名を百合平と称した。天保12年同藩士伊藤増三郎について漢学・習字を学びながら藩校敬業館に通った。また、天保14年より算術・馬術・槍術・躾法を各々師につき学び、いずれも秀でたものがあり特に槍術は奥義を究めたという。嘉永6年(1853)11月、印藤吉郎佐衛門宣諸の養子となり名を弁介と改め長府三島に住んだ。安政2年(1855)より未だ部屋住みながら藩主警衛・近習雇従役を歴任し、安政6年家督を相続すると藩主元もと周ちか(1827~1868)に雇従して江戸に上った。文久3年(1863)下関海峡の攘夷戦にはその指揮に当たり藩主より感謝状を賜った。またこの頃、坂本龍馬と知り合ったという。慶応元年(1865)報国隊が結成されるとその軍監となり得意の算術を生かし兵団経営の任に当たった。慶応3年より数次にわたり豊浦郡宇部村(現・下関市王司)沖の埋め立てを藩主に建言し水田及び塩田を開き後の企業家としての基礎を築いた。のち、豊永長吉は、関門を基盤に実業界、衆議院議員として活躍する。00176/14【7/22】煕宮(孝明天皇)(1831~1867)、京都御所清和院門外正親町邸にて、第120代仁孝天皇(1800~1846)の第四皇子として生まれる。幼称は煕ひろの宮みや。諱は統おさ仁ひと。明治天皇の父に当たる。一世一元の制制定前の最後の天皇である。幕政に発言力を持ち、大老・井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下したこともあった(文久3年(1863)3月の攘夷勅命)。また天皇は、京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計った事等もあり、長州藩には嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。それらの態度は、第二次長州征伐の原因の一つともなった。現在、「孝明天皇御衣更処茶屋跡」碑が左京区下鴨松原町にある。001836