維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 11/30

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吉田松陰誕生地(山口県萩市)松陰産湯の碑(山口県萩市)西暦1830文政13天保18/4【9/20】吉田松陰(1830~1859)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に、萩藩下級武士(26石)杉百合之助(常道)(1804~1....

吉田松陰誕生地(山口県萩市)松陰産湯の碑(山口県萩市)西暦1830文政13天保18/4【9/20】吉田松陰(1830~1859)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に、萩藩下級武士(26石)杉百合之助(常道)(1804~1865)の次男として生まれる。母は瀧(1807~1890)。夫妻は、長男梅太郎(修道、のちの民治)(1828~1910)・次男虎之助(松陰)・長女千代(のち児玉芳子)(1832~1924)・次女寿(のち楫取寿子)(1839~1881)・三女艶(1841~1843)・四女文(文子、のちの楫取美和子)(1843~1921)・三男敏三郎(1845~1876)の三男四女をもうけた。松陰幼名は杉虎之助、杉大次郎、通称は寅(虎)次郎。養子後の名字は吉田。諱いみな(本名、真名のこと)は、吉田矩のり方かた。字あざな(普段人を呼ぶ時の名称)は、吉田義ぎ 卿けい、号(称号の略)(ペンネーム、筆号)は、吉田松陰の他、二十一回猛士など。三女艶は夭折したが、松陰叔父にあたり他家を継いでいる吉田大助(賢良)(1807~1835)と萩藩大組士(40石)玉木文之進(1810~1876)が同居。これに加えて、松陰の祖母、先代常徳(七兵衛)(?~1824)の妻の妹まで引き取っており、一時は12人に及ぶ大所帯となる。杉家は貧しかったが、勉強家であり勤勉な武士の父の下、幼い頃は兄梅太郎と共に「論語」「孟子」などの中国の古典を学んだ。父や兄と共に畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」、「神国由来」、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け、本を読ませた。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。00128/10【9/26】大久保正助(一蔵・利通)(1830~1878)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、木戸孝允の遺族と共にただ二家のみであった。001310/10【11/24】清河八郎(1830~1863)、出羽国田川郡庄内清川にて郷士、豪農、酒造業の斉藤豪ひで寿としの子として生まれる。文雅を嗜み、藤本鉄石(1816~1863)ら諸国の名士を歓待する家に育った。江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。浪士組(新選組・新徴組の前身)を結成し、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。0014黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻35