維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 10/30

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文政12 3/15【4/18】山県半蔵(のちの宍しし戸ど?たまき)(1829~1901)、萩藩士安田直温の三男として生まれる。幼名は辰之助。名は子誠、のち敬宇。妻は清水谷公正の娘千枝子。吉田松陰らと共に玉木文之進の塾(....

文政12 3/15【4/18】山県半蔵(のちの宍しし戸ど?たまき)(1829~1901)、萩藩士安田直温の三男として生まれる。幼名は辰之助。名は子誠、のち敬宇。妻は清水谷公正の娘千枝子。吉田松陰らと共に玉木文之進の塾(松下村塾)に学び、また藩校明倫館に学ぶ。嘉永元年(1848)、藩儒・山県太華(1781~1866)の養子となり、半蔵と称する。嘉永4年(1851)江戸に行き安積艮斉の門に入り、塾長となった。のちの第二次幕長戦争では、宍戸備後助と名をかえ幕府の問罪使に応対。維新後、山口藩権大参事、司法大た輔ゆう、元老院議官などを歴任する。山県太たい華か(1781~1866)は、天明元年、吉田半右衛門の嫡男として周防国吉敷郡天華村にて生まれる。亀井南なん冥めい(1743~1814)に古文辞学を学んだが、のち江戸の林家・佐藤家・安積家等で朱子学を学ぶ。文化7年(1810)藩校・明倫館の学頭助役となり、文化9年(1812)には藩主側儒に取り立てられ、また文政7年(1824)までは明倫館学頭も兼任する。天保6年(1835)再び明倫館学頭兼祭酒となり、以後朱子学の普及に努めた。嘉永2年(1849)2月の明倫館の新舎建設や式目作法改正に尽力し、嘉永3年12月、職を辞すも、嘉永4年(1851)藩命を受けて「四書集注」の訓点改めを行った。嘉永5年(1852)病を得て隠居。右半身に麻痺の症状があったという。養子に半蔵(後の宍戸?)を迎えて晩年を過ごした。安政3年(1856)に吉田松陰(1830~1859)との間で行われた国体論争は有名で、松陰が一君万民論を日本固有の君臣関係と主張するのに対し、太華が君臣関係は世界万国に共通する規範であるという朱子学的見解から批判を加えた。そのほか松陰の著書『講孟箚記』を急進的に過ぎると批判するなど、松陰には批判的な見解を取っていた。なお松陰も自説を曲げることはなかったが、太華の学問への態度を高評価している。00089/27【10/24】武市瑞山(半平太)(1829~1865)、土佐国吹井村(現・高知県高知市仁井田)に土佐藩郷士の子として生まれる。通称は半平太で、武たけ市ち 半はん平ぺい太た と呼称されることも多い。000912/2【12/27】来くる原はら良りょう蔵ぞう(1829~1862)、長門国阿武郡福井上村石原で、萩藩大組の福原市左衛門光茂の三男・福原盛吉として生まれる。名は盛吉、盛功。初め福原冬嶺に学び、天保12年(1841)藩校明倫館に入った。そして翌年、母方の伯父である大組・来原良左衛門盛郷(73石)の養子となる。木戸孝允の義弟。長じては、西洋砲術などを学び藩の軍制改革に尽くす長井雅楽の「開国進取・公武合体」を支持するが、文久2年(1862)藩論は攘夷に決定。雅楽の同調者との汚名をそそぐため外国人襲撃を計画するが果たせず、自刃。享年34。0010西暦1830文政12 12/15【1/9】土屋矢之介( 蕭しょう海かい)(1829~1864)、萩藩寄組佐世氏の臣孝包の長子として長門国萩に生まれる。初め中村牛荘(1783~1869)に学び、17歳のとき広島の坂井虎こ 山ざん(1798~1850)に学ぶこと3年、ついで嘉永4年(1851)に江戸に行き斎藤竹堂(1815~1852)、塩しおの谷や 宕とう陰いん(1809~1867)、羽倉簡堂(1790~1862)、藤森弘庵(1799~1862)らの門を歴遊した。また鳥山新三郎(確斎)邸で勤王の志士と交わり、特に吉田松陰とは親密であった。文章に優れすぐれ、萩幽室の松陰もしばしば批評を求めたという。安政元年(1854)9月、父が病死したため帰国。翌年萩に塾を開き、教育に尽くして士籍に列せられる。0011西暦182934